昭和のおっさん

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スポーツとかについて 1

スポーツというのは現在基本的には良いものとされていると思いますが、私はどうも昔から違和感を感じることがあり、おっさんになってからその理由がわかってきました。

スポーツには「運動する」と「競争する」というような意味があるんではないかと思うのですが、この「競争する」のほうの「勝つことが目的」というのが引っかかっていたのでした。

私は元々競争心というものがまったくなく勝ち負けというものに価値を置かないということもありましたがスポーツを完全拒否していたわけではなく例えばプロ野球を楽しんだりオリンピックを見たり普通に付き合ってきました。

そしてスポーツを見ている中で楽しいこと、釈然としない事、好きな選手、嫌いな選手というようなことが出てきます。

選手が堂々と戦い、勝っても負けても健闘を称え合うようなことやいわゆるスポーツマンシップに則ったことは気持ちよく見れるものです。

反面、スポーツには「ルールに従う」という原則があり、裏を返せばルール内なら勝つためにどんなことでもするということがあったり、むしろそんな「勝つための工夫や執念」が称賛されたりすることもあったりしますが、それがどうも引っかかる。スポーツマンシップ的な考え方とルール違反すれすれの工夫が同居していることに違和感を感じるのです。

よく引き合いに出される例として、サッカーのゴール前の競り合いでわざと大げさに転んでPKを狙うようなプレーがあります。プロとして選手をやっていて勝つことや得点することが大事になりすぎるとなりふりかまっていられないところもあるのでしょう。しかしそういったプレーで素直に喜んだり楽しんだりは出来ないし、またそんなことを喜ぶ人間にもなりたくありません。

若く期待されている選手がインタビューで「オリンピックに出て金メダルを取りたいです」というようなことも多いですが、これも「まずは勝つこと」というのが前に出ている発言でどうも引っかかってしまいます。結果が第一なのか、金メダルが無理だと感じてしまったらもう続ける意味がないのか。

なにもこういった選手たちを非難しようということではないんです。勝つことや富や名声も人生の成功の一つでしょう。

しかしたまに勝つことや富や名声を一番大事には考えてなさそうな選手がいます。

最近では野球の大谷選手に感じます。リスクの大きい二刀流を貫き年俸など考えずアメリカに渡ってしまいます。そのモチベーションは「野球が好きでいい野球選手になりたい」ということなんだと思います。(実は彼の情報にあまり触れていないので適当なこと言ってますが)

自分のやっていることについて「好きだから」「楽しいから」「上手になりたい」という気持ちを持ち続けている選手は見ていて気持ちがいいし尊敬できる。でもそういう選手ばかりではないところに引っかかりを感じていたのでした。

そんな私は最近将棋の棋士がお気に入りです。

長くなってきたのでつづく